私は学生時代、日中学生交流サークルの紹介で、ラストエンペラーだった溥儀(ふぎ)の弟、溥傑(ふけつ)から手紙をもらったことがあります。

親日家だった溥傑は日本の若者に大変興味を持っていました。

今から30数年前のことになりますが、当時は日中の民間交流が始まった時期と重なります。

私は中国語が読めなかったので大学の同級生に翻訳を頼みました。

中国がまだ経済成長する前の頃です。

溥傑は日本には学ぶべきことが多いと書いていました。

ラストエンペラー溥儀は1962年に亡くなっていますので、溥傑は、歴史の大切な生き証人でした。

溥傑の手紙を縁に、私が兄のラストエンペラー溥儀に深い興味を持ってから30年の時間が経ってしまいました。

今日は皆さんに、ラストエンペラー溥儀の数奇な生涯について、溥傑との交流をもとに、お話したいと思います。

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溥傑から見たラストエンペラー溥儀

私が溥傑から親しみのこもった手紙をもらったのは1988年のことです。

溥傑(ふけつ)というのは、ラストエンペラー溥儀(ふぎ)の弟です。


私への手紙には、自分の国が好きかどうか、溥傑は書いていました。

溥傑は、ラストエンペラー溥儀とは、根本から考え方の違う人でした。

ラストエンペラー溥儀が時代に翻弄された生涯を送ったのとは、対照的な生き方です。


手紙から、溥傑は自国の行く末を憂いていたように私は感じました。

日本の若者に共感を抱いていたのは、天安門を予見していたからだと思います。

晩年に日本に訪れたのも、若者が未来を作ると考えていたからです。


溥傑からみた兄は、「皇帝」に酔って自分の道を誤ったと映るでしょう。


確かにラストエンペラー溥儀は、個人としてみれば気の毒な人生です。

2歳で即位し、以来、国家や歴史の犠牲になってきたからです。

溥儀の生涯が語るものは、皇帝の時代の終焉だということでした。


皇帝だった溥儀は過去に縛られ、溥傑はただ未来を見つめました。

溥儀の生涯を総括した弟の溥傑は、若者に未来を託していました。

私が手紙をもらってから1年後、事実、天安門事件が起きました。


時代に翻弄され続ける人民を、溥傑は心の底から心配していました。

日中国交の架橋として手紙をくれた溥傑の思いは私に届きました。

手紙を読み、私は自分が安全な国家にいる幸せを強く感じました。


溥傑から見たラストエンペラー溥儀を見たあとは、溥儀の生涯の始まりをまとめてみます。

ラストエンペラー溥儀の波乱の生涯の始まり

ジョン・ローンの映画「ラストエンペラー」をご存知の方も多いと思います。

史実に非常に正確なので、一見の価値がある映画ですが、ここではラストエンペラー溥儀の波乱の生涯のスタートを見ていきます。


ラストエンペラー 溥儀 生涯


1908年、2歳の時に溥儀は清朝第12代皇帝に即位しました。


映画で見るように、幼君だった溥儀には有能な側近が1人だけいましたが、国家を統治する能力は全くありませんでした。

幼い溥儀には自己決定権は何もなく、周囲の力関係によって運命が左右されていました。

1908年の即位こそ、ラストエンペラー溥儀のピエロ役の始まりだったと私は思います。


以降のラストエンペラー溥儀は、全く自立心を欠いた、他人に依存する人生を送る結果だったからです。


おそらく溥傑は、兄の不遇な生涯を見つめてきたはずです。

生活能力が全く無く、日常の家事もまともに出来なかったラストエンペラーの溥儀。

何度も結婚と離婚を繰り返し、妻を発狂にまで追いやったこと。

利用されてきた側面もありますが、幼少期から皇帝として祭り上げられたため、生涯自立することの出来なかった溥儀のことを。


溥傑が私たち若者だった人間に関心を強く持っていたのは、私たちが自立して国の未来に関わりがある世代だったからでしょう。

彼の若者への温かい眼差しは、手紙の文面から溢れていました。


溥儀の波乱の生涯は幼少期に始まることを見てきましたが、果してラストエンペラー溥儀は自立することが出来たのでしょうか?

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ラストエンペラー溥儀は自立出来なかった

溥儀は日本の力によって、傀儡国家満州の皇帝に返り咲きました。


ですが、これは弟の溥傑には、真の自立には映っていなかったと思われます。


青年になったラストエンペラー溥儀は、満州国皇帝の座に次第に酔うようになっていきます。

溥儀はおそらく、満州国皇帝の座に就くことで、初めて自立した気持ちになっていたのではないかと私は推測しています。

家族を省みなくなった溥儀のために、妻の婉容はアヘンに溺れていき、最期は発狂してしまいます。

それほど溥儀は「皇帝」の座に酔っていたものと見られます。


やがて日本の敗戦とともに、あっけなく満州国は崩壊します。

ソ連軍が進行してきて、溥儀はソ連に抑留されることになります。


今度も他人の手で、溥儀は皇帝の座から引きずり降ろされたのです。


こうなると、滑稽を通り越して悲劇としか言いようがありません。

2度も違う国の皇帝になったのは、世界で溥儀たった1人です。

他人の手で皇帝に祭り上げられて、他人の手で皇帝の座を追われる。


中華人民共和国の樹立と共に、ラストエンペラー溥儀の身柄はソ連から中国に移り、政治犯として収容されることになります。

ここで徹底的に思想洗脳を受けた溥儀は、1959年の特赦まで収監され続けることになります。


溥儀という自立出来ない1人の人間を見ていると、国家や他人の思惑で生きざるを得ない悲しい人生が浮かび上がってきます。


皇帝であったためにラストエンペラー溥儀の人生は流転し続けましたが、放免後は平民として生きていくことになります。


自立出来なかったラストエンペラー溥儀の人生を見てきましたが、では溥儀には、歴史的な存在価値は無かったのでしょうか。

ラストエンペラー 溥儀 生涯

ラストエンペラー溥儀に見る歴史的意義

溥傑の手紙から察せられたのは、ラストエンペラー溥儀は、民衆への関心は最初からあまり無かったのだと思われます。

兄である溥儀の業績に関しては、一言も言及が無かったからです。

ただ、弟の溥傑は正しく歴史を見通していたのでしょう。

しきりと日本の若者に興味がある、と書いていました。


中国史は動乱の連続です。


幼君だった溥儀には、国を統治する力を養う時間もなければ、満州国皇帝に返り咲いても、最初から何の力も無かったのでした。

自立できない幼君を皇帝に立て、側近が好き勝手に政治を歪めてきたのが中国史です。


ラストエンペラー溥儀の歴史的意義は、もはや中国では数千年続いた帝政は不可能だと、全ての中国人が悟ったということです。


溥傑の言葉の裏にあるものは、自立出来ない皇帝ではなく、自立した若者が未来を作っていくということだったのです。

溥傑はおそらく、中国の若者たちの気持ちを悟っていたのです。

若者こそ、国の将来を背負って立つという信念が溥傑からは感じられました。


ラストエンペラー溥儀が果たした滑稽なピエロの役は、「ラストエンペラー」の名にふさわしい、見事なはまり役だったと私は思います。


冒頭で、溥傑は時代の生き証人だと書きました。

中国とは違って、自由に発言の出来るはずの日本の若者が押し黙っているのが、溥傑には不思議だったのかも知れません。

あるいは、兄の溥儀と同じく、自立出来ない日本の学生を嘆いていたのかも知れません。


溥儀の自立心の欠如に学ぶべき歴史的意義は多いとみたところで、つぎに、自立した個人こそ国家を背負えるという視点で書いてみます。

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ラストエンペラー溥儀の生涯の目標は自立だった

溥傑の手紙の、「貴方は自分の国が好きですか?」の問いかけだけは、私は一生忘れないでしょう。


自立した個人こそ、国や家族を背負っていけます。


日中の若者に向けた溥傑の温かい眼差しは、私の心の財産です。

2度も皇帝の座に就いたラストエンペラー溥儀ですが、彼の存在を通して思うのは、もはや帝政は不可能であり、その幕引きのために溥儀の存在は意味があったのでは、と思います。

そう思えば、彼の人生も無駄ではなかったかもしれません。

ラストエンペラー溥儀は、個人として見れば非常に気の毒な人間で、時代や国家に翻弄され続けたとも言えます。

溥儀も収容所から出て、自分の足元を見つめる人らしい生活を始めたことに、溥傑は安堵していたのではないでしょうか。

ラストエンペラー溥儀も、やっと「自立」することに目覚めたのです。

晩年、ラストエンペラー溥儀は植物園で働いていたそうです。

きっと花や植物を見て、こころが癒やされていたのかもしれません。

「皇帝」だった溥儀が、花だけにこころを寄せる晩年に、私は救いを見た気がします。


私が溥傑の言葉から学んだことは、国を愛するためには自立した大人になり、家族や友人を大切にするということです。

ラストエンペラー 溥儀 生涯

ラストエンペラー溥儀の生涯とは?皇帝に憧れた男の自立出来ない運命まとめ

溥傑の手紙の言わんとするのは、誰しも、自立した人間である必要があるということです。

国を思う気持ちは、自立した個人から発するという言葉は、そのまま兄のラストエンペラー溥儀に向けた言葉だと言い換えることが出来ます。

日中の架け橋として届いた溥傑の手紙は、私たち日本の若者に、大きな勇気と希望を与えてくれたのでした。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

by はぐれ鳥

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